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世界の王を名乗った男 インカ皇帝パチャクティ

中世ヨーロッパでペストが猛威を振るっていた頃、大西洋を隔てた新大陸では、ひとりの男が自らを「世界の王」と名乗り、巨大な帝国を建国するため侵略の戦いを仕掛けていた。彼の名はパチャクティ。後に新大陸で最大の版図を誇ることになるインカ帝国の若き国王である。
彼が台頭するきっかけとなったのは、インカにとって最大の敵であるチャンカ族による侵略戦争であった。チャンカ族は勇猛なる戦士の一族である。血に餓え、人を殺すことにいささかの躊躇いももたない彼らは、自分たちが殺した敵の骨で作ったアクセサリーを身にまとい、さらにはミイラ化した死者の王を陣頭に掲げることによって戦意を高揚させ、インカ征服を目論み攻めてきたのだ。その軍勢はインカの軍勢よりも遥かに強大であり、その軍勢に恐れをなしたパチャクティの親や兄弟たちは逃げ出してしまったほどだ。
しかし、勇猛果敢な戦士であるパチャクティは恐れを知らず、味方を率いてチャンカ族との死闘を繰り広げた。それは石器や投石を使った極めて原始的な戦いであったが、熾烈を極め、多くの死傷者をだす戦いであった。
死を恐れぬチャンカ族の戦士に対し、パチャクティもまた死を恐れずに戦った。王である前に戦士である彼にとって、死は恐れるものではなく、むしろ望むものでさえあったからだ。パチャクティは多くのチャンカ族の戦士を倒し、そしてついには彼らのシンボルであった死者の王を倒すことにも成功し、チャンカ族を撃退することに成功した。
これをきっかけとしてパチャクティの地位は確固たるものとかし、その勢力は拡大の一途を辿った。その版図は現在のチリ、ペルー、ボリビアの全土に及び、さらには彼の時代にあのマチュピチュが建てられたほどの一大帝国となったのである。
しかし、彼が築いた大帝国は、たったの100年ともたなかった。中世の暗黒時代が過ぎ去り、新たなる利益と活路を見い出すべく、欲望の塊と化したヨーロッパ人がやってきたからである。彼らにより、インカ帝国は奪いつくされ、破壊しつくされることとなる。

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中世ヨーロッパのトイレ事情

17世紀、太陽王として知られるルイ14世によって建築された壮麗にして荘厳な宮殿、ヴェルサイユ宮殿は、まさに中世ヨーロッパを代表する建築物といえる。その様式美はいまなお見る者すべてを圧倒し、観光立国として屹立しているフランスの目玉の観光地のひとつとなっている。だが、見た目の美しさとは対称的に、中身は決して美しいとはいえない。
日本には古来より「玄関はその家の鏡であり、便所はその家の心である」という言葉が残されているが、ヴェルサイユ宮殿にはその「心」がなかったのだ。つまり、トイレがない宮殿なのである。
これはなにもヴェルサイユ宮殿に限ったことではない。中世ヨーロッパ全土に「トイレ」がなかった時代だからだ。戦乱に明け暮れた時代を人は「暗黒の時代」と呼ぶが、当時のヨーロッパはまさに「汚物の時代」だった。
古代ローマでは下水設備が発達し、なんと水洗トイレまで存在していたが、この優れた文明をヨーロッパ人たちは受け継がなかった。
当時のヨーロッパ人たちは「おまる」や「瓶」に用を足し、溜まるとそれを川に捨てるという生活習慣を送っていた。だが、これは教養がある家庭の話であり、多くの家庭では溜まった糞尿を窓の外から投げ捨てていたといわれている。しかも下の道を人が通っていようといまいとだ。そのため路上は糞尿に塗れ、悪臭が漂い、人々は「日傘」を差してあるかなければならなかったという。また、男性が女性をエスコートする際、男性は家側を歩くというマナーは、糞尿が空から降ってきたとき、女性が糞尿を被らないようにするためであったそうだ。フランスやポーランドでは、家の窓から糞尿を投げ捨てたら罰金という刑罰も存在していたが、人目を掻い潜って糞尿を投げ捨てていたというからマナーなんてあったもんじゃない。また、道はどこもかしこも糞尿塗れだから、雨の日は泥ではなく糞尿によって道がぬかるんでしまい、道路の端に木の板をしかなければ歩けないほどだったそうだから、当時の衛生環境が劣悪にして最悪だったことは言うまでもないだろう。想像したくもない光景だ。
さて、前述のヴェルサイユ宮殿であるが、当時のヨーロッパがどこもそんな状況なのだから宮殿の中も糞尿塗れだった。紳士も淑女も「おまる」で用を足し、糞尿をふまないためにハイヒールを履き(当時、ハイヒールは男性の履物だった)、外でも平気で用を足し(パラシュートのようなスカートは用を足す姿を隠すため)、臭気を誤魔化すために香水(衣類の洗濯は月に1度でもすれば潔癖とさえいわれていた)を身体中にふりかけて生活していたという。
こんな衛生環境ゆえ、黒死病とよばれるペストが蔓延し、多数の死者が出たのは当然といえば当然の話である。

人間の鎖 バルト三国独立運動

エストニア、ラトビア、リトアニア――「バルト三国」の通称で知られるこの三カ国は、第二次大戦以降、アメリカと並んで世界に屹立していた超大国であったソビエト連邦の支配下にあった。当時は資本主義陣営と社会主義陣営が競う冷戦の時代である。ソビエトは社会主義陣営の長として、やはり資本主義陣営のアメリカと競い合っていたのだが、度重なる軍備拡張、社会主義経済の行き詰まり、はてはアフガン戦争の泥沼化によって弱体を続け、ついにはその巨体を維持できなくなる。
そんなソビエト末期の中で発生したのがバルト三国での独立運動であった。
バルト三国では80年代中旬から独立を求めた集会がそれぞれの国の首都でおこなわれていたが、規模は小規模であり、また治安当局者の圧力によって潰されている。1987年には極めて規模の大きな集会が決行されたが、当局の強行によって逮捕者まで出る騒ぎとなり、強制的に解散させられて潰されている。
しかし、バルト三国の人々は独立を求めて止まず、諦めなかった。
そしえて1989年8月23日、共産党当局の許可を得て、容易周到な計画がなされて「人間の鎖」による独立運動がおこった。エストニアからリトアニアにいたるまで、総距離600キロメートルに及ぶ道のりを、200万人もの人々が手を繋ぎ、バルト三国の一体感を訴えたのだ。この独立運動によってバルト三国のソビエトからの独立は一気に進むことになる。
ソビエトはバルト三国の分離・独立の動きを阻止するため、ラトビアやリトアニアに軍事介入をする準備を進め、実際に両国に軍部隊を派遣して流血の惨事「血の日曜日事件」などを起こすが、バルトの人々の独立への炎を消すことはできず、西側諸国からの強い抗議や非難の声を受け、バルト三国からの撤退を余儀なくされる。そして1991年9月6日、ソビエト国家評議会は三国の独立を承認することになる。

アポロ計画の陰謀! 人類は本当に月に行ったのか?

1969年7月16日、アメリカのケネディ宇宙センターからロケットが発射された。サターンV型ロケット・アポロ11号である。搭乗員としてニール・アームストロングとバズ・オルドリンが乗ったこのロケットは、人類史上、初めて人間を月へと送り込む偉業を成し遂げた。

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」

月面に人類史上、初めてとなる一歩を刻み込んだアームストロングが地球へと贈った言葉は、いまでも名言として語り継がれている。
しかし、この「人類初の快挙」には、当初から様々な陰謀や憶測が飛び交っていた。
具体的な例を挙げれば・・・・・・

・月面で撮影されたはずの写真あのに空に星が写っていない。

・月面は真空であるはずなのに、写真や映像に写っている合衆国旗がはためいている。

・アームストロング船長がロケットからハシゴを降りていく映像が、無人のはずの月面から捉えられている。

・影の方向が、写真内でバラバラだったり、長さが違うのはなぜか。

・宇宙船が着陸するさい、噴射の反動で大きなクレーターができるはずなのに、それが写っていないのはどうしてか。

・・・・・・などである。
確かに、上の部分だけを抜粋した陰謀説は、幾つもの書物となって月面着陸後から言われてきたものの代表各である。ゆえに、アポロ計画はでっち上げで、映像の撮影はハリウッドでおこなわれたのだ、という主張が公然となされてきた。
しかし、それに対する反論例は驚くほど少ない。だが、反論はしっかりとなされているのである。

・月面に星が写っていないのは撮られた時間帯が月の昼間であり、太陽光が当たって地表が輝いていたため(地球でも昼間は星を撮影することはできない。

・真空状態でも旗は旗を立てる時のエネルギーを受けてはためくし、空気がない分、地上よりも動きはすい(実際、旗にふれていない常態では、旗はピクリとも動いていない)

・アームストロングの姿がハシゴから降りる様子を撮影されていたのは、ハッチ部分にカメラが装着されていたから。

・影の長さや方向がバラバラなのは月の地表に傾きや差があるため(そもそも、光源複数あるならば、影がひとつではなく複数できる)

・ロケット噴射でクレーターがないのは、月の表面が地上の地面と違ってもの凄く硬いため。

などである。
もちろん、これらも陰謀論者にかかっては、再反論がなされるため、不毛な論争にはいまも決着がついていない。
しかし、アポロ11号が月に行ったという明確な証拠は、月に設置された反射器の存在であろう。これはアームストロングらの手によって設置され、貴重なデータを地球に送っている。その結果、月が毎年、ほんの少しづつ地球から遠ざかっているのがハッキリしたのは、ご承知の通りだろう。
アポロ11号は間違いなく月に行った。
しかし、陰謀説はこれからも続いていくであろう。
絶対に。

海水から金を取り出せ! ドイツの苦肉の策

1914年6月にオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公がセルビアの青年に暗殺された事件――世に伝わるサラエボ事件をきっかけとして勃発した第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国らからなる中央同盟国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国との総力戦であった。戦いは1914年から1918年まで、実に4年間にも及び、ヨーロッパの主戦場のほか、アフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にいたるまで、世界各地で戦闘行為がおこなわれていた。この戦いはアメリカの介入もあって連合国の勝利で終わり、敗者となったドイツには1520億マルクにも及ぶ巨額の賠償金が課せられることになった。
この1520億マルクとはどれほど巨額の賠償金だったのか。当時のドイツの経済状況は国民純生産額は約524億マルク、中央政府収入が約20億マルク、中央政府支出が約35億マルクである。この巨額の賠償金を、連合国は戦争で疲弊しきったドイツに対し、30年間に渡って支払うよう要求したのである。それもマルクではなく外貨で、である。
当然、こんな巨額な賠償金を支払う能力などドイツにはない。そのため、苦肉の策として考案されたのが海水から「金」を抽出するという研究であった。
海水には多種多様な物質が溶けており、地球上の海水にはなんと推定で50億トンもの金が含まれているということがすでに知られていた。これは地上に存在するといわれている金の量の(推定24万トン)を遥かに凌駕する規模である。ドイツとしては是が非でも欲しかったに違いない。
しかし、問題は抽出方法であった。海水から1グラムの金を抽出するためにはなんと2万トンもの海水を煮詰めなければならず、そのための燃料費の方が高くついてしまうことが判明したのだ。これではとてもではないが、割にあわない。結局、ドイツは巨額の賠償金を工面することができず、絶望的な状況下へとおちいっていく。天文学的なインフレ、凄まじいリストラと失業者の増加、空前の大不況、そしてフランスとベルギーによるルール工業地帯への進駐など、ドイツにとってはまさに悪夢としかいえない時代が到来したのだった。
ドイツ人の鬱屈は日増しに高まっていき、そして状況が極限までいたった時、出現したのがヒトラー率いるナチスであった。そして世界は再び世界大戦へと突き進むことになるのだが、それはまた別の話である。
ちなみに、現代においても海水から金を効率よく抽出する方法は存在しない。
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