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アメリカとソビエトの代理戦争 朝鮮戦争

 1950年6月25日、北緯38度線にて北朝鮮軍が砲撃を開始したことで戦争の火蓋がきっておとされた。戦争開始の30分後には北朝鮮軍が約10万の兵力でもって38度線を突破し、韓国の蹂躙を開始。宣戦布告はなく、油断していた韓国軍は一瞬にて撃破され、6月28日にはソウルが陥落した。この時、撤退する韓国軍が漢江にかかる橋を避難民ごと爆破したため、漢江以北に多数の軍部隊や住民が取り残される事態となった。
 来るべき戦争に備え、訓練を重ね、装備を強化していた北朝鮮軍は強大であり、貧弱な装備と士気の低い韓国軍は各地で相次いで敗れた。また、急いで駆けつけたアメリカ軍も準備が不十分であり、北挑戦軍を相手に太田の戦いで奮戦するも、大敗を喫することとなる。
 国連軍は洛東江戦線まで追い詰められ、パニックに陥った韓国軍は、目に見えぬ敵の恐怖に怯え、保導連盟員や共産党関係者などの政治犯およそ20万人を虐殺する暴挙にでた。もはや北朝鮮による朝鮮半島統一は目前かと思われたが、ここで北朝鮮軍に予想外のことがおこる。戦線があまりにも急激に延びてしまい、物資の補給や兵員の補充が間に合わず、進軍を停止する羽目になったのだ。この間、わずか三日。このわずか三日という時間が、アメリカと韓国に反撃を許す結果となる。
 9月15日、アメリカ軍司令官ダグラス・マッカーサーによって計画された仁川上陸作戦が実施。アメリカ軍を筆頭とする国連軍による反撃が開始された。北朝鮮軍は補給路を破壊され、物資や兵員の補充ができなくなり混乱状態に陥る。さらには釜山周辺の戦闘で大きく消耗し、敗退。敗走を余儀なくされる。そして9月28日、国連軍によってソウルが奪還された。
 10月1日、北朝鮮の敗北に気をよくした李承晩は、これを祖国統一の機会と捉え、独断で韓国軍に38度線の突破を命じる。韓国軍の北進に対し、北朝鮮の友好国であった中国が反応する。かねてより中国は、アメリカ軍が38度線を越えれば反撃すると宣告していたが、それが現実のものとなったのだ。中国は志願兵という名目で参戦し、戦争は一気に泥沼化の様相を挺してゆく。
 中国軍は11月に入ると国連軍に対し大攻勢を仕掛け、アメリカ軍やイギリス軍を撃破して南下を続けた。中国軍の早期介入を予測していなかった国連軍は相次いで敗れ、占領していた平壌を放棄して38度線より南まで後退する羽目になった。
 そして1951年1月4日、ソウル再び陥落。ソウルの主権者はこのわずかな間にまたも変わることとなった。
 中国軍は参戦後、日中戦争や国内内戦で培った経験と人命を軽視した戦術によって国連軍を圧倒し、優勢を保っていたが、やがてそれらの戦術にも限界がくる。攻撃が鈍りはじめた中国軍に対し態勢を立て直した国連軍が反撃。3月14日にソウルを再奪還したものの、その後、38度線を挟んで膠着状態に陥る。疲弊に疲弊を極め、戦いどころではなくなったのだ。
 その後、1951年6月23日にソビエトの提案によって停戦が模索され、1953年7月27日、板門店にて休戦協定が結ばれ3年に渡って続いた朝鮮戦争はこれにて一時の終結となる。
 戦線が絶えず移動を続けたことにより、朝鮮半島各地で激しい地上戦が繰り広げられた。そのため、多くの都市が戦火に包まれ、一般市民にも多数の死者が出る結果となった。
 犠牲者の数は300万人を超えており、これは世界史における5番目に犠牲者が多い戦争であった。
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