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世界を滅ぼす核の力 ツァーリ・ボンバー

1945年、太平洋戦争末期、日本に二つの特殊爆弾が投下された。原子爆弾と呼ばれる史上初めてとなる核爆弾である。この二発の核兵器はその恐るべき破壊力によって広島と長崎を死の町へと変え、多くの無辜の民を殺し、日本の抵抗の意思を砕いた。原子爆弾を投下したアメリカは、これによって世界に平和が訪れると誇ったが、だがこれは、これから訪れる核の時代の幕開けに過ぎなかったのである。
第二次世界大戦後、アメリカとソビエト連邦が相次いで核兵器を開発する。ウラン型原子爆弾、プルトニウム型原子爆弾、水素爆弾などを次々と作り出し、その威力を誇るかのごとく実験を繰り返した。そしてこの核兵器の競争は、ついには史上最悪の悪魔をも生み出してしまったのだ。
ソビエト連邦で生み出されたその核兵器の正式名称はAN602、通称「ツァーリ・ボンバー」。意味は爆弾の皇帝。その名のごとく、人類史上最大の破壊力を持つ水素爆弾である。
このツァーリ・ボンバー、単一兵器としては人類史上最大の破壊力を誇り、その威力はTNT火薬に換算して99000キロトンを誇る。これは広島に投下された原子爆弾のおよそ3300倍の破壊力で、なんと第二次世界大戦中に全世界で使用された総爆薬量の10倍に匹敵する。当然、その威力は凄まじく、致死性放射線領域は半径6・6キロメートル、爆風や爆炎による殺傷範囲は23キロメートル、致命的な火傷を負う効果範囲はなんと58キロメートルにも及んだそうだ。1961年10月にノヴァヤゼムリャでおこなわれた核実験の際には、その巨大なキノコ雲は成層圏にまで到達し、衝撃波は地球を3周したという。しかもこの威力は出力を半減にした状態のものであり、実際にはその倍もの破壊力を発揮することも可能だった。
なぜ、これほどまで強力な破壊力を必要とする爆弾が必要だったのだろうか。
ただ単純に他者を上回る力が欲しかったからとしか言いようが無い。当時、地球にはすでに、地球を幾度となく滅ぼすに足る量の核兵器が造られていたが、それでもなお、大国は誇示する力に飽き足らなかったのだ。その結果としてツァーリ・ボンバーは生み出された。核の時代の申し子といえよう。
幸いにも、このツァーリ・ボンバーはその巨大な破壊力ゆえに実戦には不向きとされ、量産がおこなわれることはなかった。しかし、世界には広島や長崎に投下された原子爆弾よりもさらに強力な核兵器が何万発と眠っているのである。したがって、核の脅威と恐怖が人類の頭上から消え去ることはない。人類は必ず、もっとも愚かな選択肢を選択する生き物なのだから。

オランダのインドネシア植民地政策

インドネシアにヨーロッパ勢力が進出をはじめたのは16世紀のことであった。香辛料を求めてのことだ。
1602年、オランダの東インド会社がインドネシアに進出。オランダによる植民地支配がはじまる。それはまさに、白人種による有色人種への差別や圧政の形そのものであった。
 日本が幕末から明治へと移行する頃も、インドネシアではオランダによる苛烈な支配が続いていた。日本が富国強兵政策を進め、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と移行している頃も、インドネシアはオランダによって虐げられていた。
 オランダはインドネシアにおいて愚民政策をとり、教育を禁止にしていた。知識人はほぼ皆無に等しく、一般市民の識字率はほんの数パーセント程度であったといわれている。また、住民に武力による反乱を起こさせないよう、青年の体育や団体訓練を禁止にし、数人の行列行進さえも行えば罰則の対象としていた。むろん、住民による集会は一切禁止。独立運動家はニューギニアなどの島に流刑に処され、あるいは死刑にされた。国旗の掲揚や国歌の斉唱も禁止された。インドネシア人は家畜のごとく酷使され、拷問や虐待は当たり前、逆らえば簡単に命を奪われた。インドネシア人による反植民地運動は徹底的に弾圧され、多くの人の命が奪われた。しかもオランダは、暴動鎮圧には自らの手を下さず、雇い入れた現地人を活用することによって憎悪の眼を彼らに向けさせるように仕向けた。
 大恐慌の最中、オランダ本国の財政を支えるためインドネシアでは「強制栽培制度」が設けられた。これはインドネシア人にコーヒーや茶などの利益率が高い指定された作物を栽培させ、不当な安い金額で買い取るというものであった。結果、インドネシアの農業は崩壊し、食料の自給率は大幅に低下。多くの餓死者が出ることとなり、平均寿命は35歳まで下がったと言われている。そしてこの「強制栽培制度」によってオランダが得た利益は、実に国家予算の3分の1であったといわれている。
 インドネシア駐在のオランダ人たちは現地で王侯貴族のような生活を営んでいた。莫大な富を吸い上げ、豪邸に住み、美食を嗜み、スポーツに汗を流した。大勢の現地人を召使や使用人としてコキ使って。現地のインドネシア人との暮らしぶりを比較すれば、その差はまさに天と地であった。
 だが、彼らの支配は唐突に終わりを迎える。
 1941年12月8日、太平洋戦争が勃発。日本軍が資源獲得とアジア解放のため、ヨーロッパが支配する東南アジアへと侵攻を開始。翌1942年1月11日、日本軍がオランダ領メナドとタラカンへ侵攻。両軍は戦闘状態に陥るも、圧倒的な軍事力を誇る日本軍の前にオランダ軍はなす統べなく大敗を喫する。こうして350年にも渡るオランダのインドネシア支配は終焉を迎えたのだった。
敗戦後、オランダ軍の将校たちは日本軍によって捕らえられ、かつて自分たちがインドネシア人たちを閉じ込めていた牢獄へといれられた。彼らはそこで、いったい何を思ったのだろうか。

欧州を守れ! トゥール・ポワティエ間の戦い

世界史において十字軍によるイスラム教世界への侵攻は有名である。キリスト教を主教とするヨーロッパ勢は大軍を率いて中東へと攻め入り、そこで蛮行・悪逆非道の数々をおこなった。キリスト教徒たちはイスラム教徒たちを虐殺することになんの抵抗も疑いもなく実行し、男は皆殺しにされ、女子どもは奴隷として売りさばかれた。そして金目の物は根こそぎ略奪されたのである。
では、イスラム教徒たちは一方的な被害者かといえばそうでもない。イスラム教はイスラム教でキリスト教圏であるヨーロッパへと侵攻したことがある。イスラム教世界にとっては初めてとなる世襲国家・ウマイヤ朝がそうだった。別に珍しいことではない。この時代は侵略にせよ、征伐にせよ、防衛にせよ、戦いにつぐ戦い、戦乱につぐ戦乱がずっと続いており、それが中世の世界を成り立たせていたからだ。
イスラム教国・ウマイヤ朝は強大な国家であった。その勢力範囲は中東に留まらず、北アフリカから現在のアフガニスタン、そしてイベリア半島(スペイン)にも及んでいたのである。そしてウマイヤ朝はこのイベリア半島を足がかりとして侵略軍を編成し、ヨーロッパへとその勢力の拡大を目論んでいたのだ。
西暦732年カリフ・ヒシャームによってイベリア知事に任命されていたアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーが大軍を率いてピレーネ山脈を北上、フランク王国内へと侵入したのだ。最初にこの軍を迎え撃ったのはボルドーのウード伯であったが、強大なイスラム軍の前に大敗し、ボルドーは略奪され、破壊し尽くされた。アブドゥル率いるイスラム軍はさらに侵略の歩みを進め、トゥールにあるサン・マルタン教会を目指す。そこに莫大な財宝があるとの情報を得たからだ。
この頃、フランク王国ではことの重大さに気づいたカール・マルテルが急遽軍を召集していた。英明だった彼はイスラム軍の侵略が意味することを知っており、国土を防衛するために出動したのだ。もし、進撃するイスラム軍を止めることができなければ、それはヨーロッパ全土の危機のみならず、キリスト教世界の終焉をも意味するのだ。事態は一刻を争う。カール・マルテルは編成した1万5千の軍勢を率いてパリからトゥールに急行し、南のポワティエにて激突した。
戦いは壮絶だった。イスラム軍は騎兵隊を軸に波状的な攻撃を仕掛け、フランク軍を苦しめた。しかし、カール率いるフランク軍の重装歩兵部隊は密集陣形を形成して頑強にこの攻撃を凌いだ。この時点においてイスラム軍の力はフランク軍を遥かに上回っており、戦いが長引けば長引くほどフランク軍にとっては不利な戦況となっていた。だが、幸運がフランク軍を救う。イスラム軍の指揮官であったアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキーが戦死し、戦意を喪失したイスラム軍が退却していったのである。カールを含め、フランク軍はホッと息を吐き、安堵したという。
この戦いによってカールの声望は一気に上がったが、カールとしてはそれを喜んでばかりはいられなかった。強大なイスラム軍がまたいつ攻めてくるかわからない今、その脅威に対応できるようにしなければならない。カールは騎兵部隊を増員し、強大な権力を誇っていた教会から領地を没収してそれを騎士たちに分け与えるなどして改革をはかった。封建社会の台頭である。そしてやがて十字軍へと繋がっていくのだが、それはまた別の話である。

髑髏杯 敗者の頭蓋骨で酒を飲む

人間、何をどうすればそんなことを考えつくのか理解できないことがある。常軌を逸脱した拷問や狂気に満ちた人体実験、効率を追及した処刑方法や生ではなく快楽を追求した結果の食人など、歴史上には同じ人間であることを呪いたくなるようなおぞましい逸話が数多く残っている。髑髏杯もその内の一つに入るであろう。
髑髏杯とはその名の通り、人間の頭蓋骨で作った杯のことである。主に権力者や戦いの勝者が敗者の頭蓋骨で作成したといわれている。製造方法はいたって簡単で、首を切り落とし、頭や顔の皮を剥ぎ取って眼球や舌を刳り貫き、頭蓋骨の頭頂部に穴を開けて中身を取り除く。そして洗浄して綺麗にした後、金箔や漆などを塗って装飾を施すのである。想像しただけでも頭が痛くなる光景だ。
日本では織田信長が浅井長政や朝倉義景の頭蓋骨を用いて骸骨杯を作ったことで有名だが、実はこの骸骨杯、世界中で作られているのである。紀元前においてはスキタイ人が近親者か最も憎い敵に限って骸骨で杯を作ったという記録が残されており、かつてモンゴルに存在していた匈奴という騎馬民族も敵国の王の頭部を用いて骸骨杯を作ったとされている。ランゴバルド王国(現在のイタリアに存在していた地方王国)のアルボィーノ王もゲビド族を虐殺した時にゲビド王の頭蓋骨で杯を作っている。ブルガリア帝国の皇帝クルムにはブリスカの戦いで戦死した東ローマ帝国の皇帝ニケフォロス一世の頭蓋骨で作られた骸骨杯が献上され、サファーヴィー朝ペルシアのシャー・イスマーイールも敵対者であったムハンマド・シャイバーニー・ハーンを討ち取った時に骸骨杯を作っている。他にもインドでは宗教の信仰において髑髏杯を作っているし、中国やチベットでも髑髏杯を無数に作成している。日本でも織田信長の他にもかの有名な水戸光圀も罪人の首で作った骸骨杯を持っていたという。現代でも狂人が死体で家具や装飾品を作っていたという記録もあるから、おそらくそれも髑髏杯の一種なのだろう。
どうしてそのような気色悪い物を作成したかはそれぞれに理由やルーツがあるのだが、これほどまで脈々と古今東西を問わず骸骨杯の文化が受け継がれているということは、もしかしたら人間の遺伝子になんらかの情報が刻まれているのかもしれない。
想像してほしい、装飾が施された頭蓋骨で飲む酒の味を。勝者にとっては格別だったかもしれないが、管理人は吐きそうだ。ただ、容量だけはしっかりと入ったことだろう。

同性愛者の軍隊 神聖隊

古代においても現代においても、愛する者ためであれば死にもの狂いで頑張ることができる者は少なくないはずだ。自分が大切な者のためであれば自分のためよりも何倍もの実力を発揮することができる。事実、そのような事例は数多く存在している。現代の日本であれば家族のために過労死するまで働くサラリーマンたちがそうだろう。
この考えに基づいて結成された軍隊が古代ギリシャ・テーバイに存在している。名は神聖隊といって150組300人からなる恋人同士の軍隊だ。恋人が協力して無双するという設定は漫画やドラマ、映画やライトノベルなどでよく用いられる光景だが、この神聖隊は男女の恋人同士の軍隊ではない。男と男の恋人同士の軍隊なのだ。つまりホモ、もしくはゲイの軍隊なのである。
この同性愛者の軍隊が結成された理由は上記にある通り、愛する者を守るためであれば実力以上の力を発揮することができるだろうという想定のためだ。所属する兵士たちはその思惑通り、恋人(男)を守るために訓練と戦いに励んだといわれている。実際、彼らは相当強かったようだ。何しろ現代のホモのように細身でなよっとした男か女かわかならいような体格ではなく、全員が全員、筋骨隆々の兵士たちだったのだから。この神聖隊は古代ギリシャ最大の軍事国家スパルタを破ったレウクトラの戦いをはじめとする複数の戦場で活躍し、テーバイがギリシャの覇権を確率するために貢献したとされる。テーバイが衰退しても部隊は存続していたというから、よほど強かったに違いない。
この神聖隊、最後は当時王子だったアレクサンドロス大王とカイロネイアの戦いで激戦を繰り広げ、部隊の八割が戦死するという壊滅的な打撃を受けて消滅した。しかし、彼らの戦いぶりはアレクサンドロスの父親であったマケドニア王ピリッポス二世を感動させ、王は涙を流して彼らを称えたといわれている。
人間、やはり護るべき存在があると強いということの証明といえよう。
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